更新日: 2023.02.05 年収
「豊臣秀吉」は大出世で天下人へ! 大名になって年収はどのくらい変わった?
本記事では、豊臣秀吉が大出世で天下人となったとき、年収がどのくらい変わったかを解説します。
執筆者:FINANCIAL FIELD編集部(ふぁいなんしゃるふぃーるど へんしゅうぶ)
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出世前の年収はどれくらい?
秀吉の出自に関しては、農民・足軽・下級武士など諸説あるものの、決して高い身分でなかったことがわかっています。織田信長に仕えていたときは、「草履を懐(背中)に入れて温めた」といったエピソードも残っており、衣食住の現物支給で暮らしていたこともありました。
その後は着実に出世を重ねて、足軽組頭になります。足軽組頭になったとき、「ねね」と結婚しましたが、結婚式も簡素なものでした。足軽組頭になったときの年収は現在の価値で800万円程度ですが、一般的な農民と比べると高い年収がありました。ふたりの結婚は秀吉が20代半ばの頃だったので、800万円は当時としても少なくない収入です。
しかし、戦国時代は身分の差が大きかったため、武士と比べると、まだまだ貧しいとされる収入でした。実際に、ねねの実母は身分や収入の低い秀吉との結婚に大反対したそうです。国税庁の令和3年分民間給与実態統計調査によると日本の給与所得者の平均給与額は約443万円なので、現代に置き換えたなら、出世前でも平均年収以上の収入があったことになります。
天下人となってからの年収はどれくらい?
秀吉は、墨俣城築城・金ヶ崎の戦い・越前朝倉氏討伐などの実績が評価されて、「羽柴」の姓を与えられます。木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名したのち、近江長浜城の城主、つまり大名にまで出世をしました。
大名になると領地から年貢米などの収入を得ることができます。近江の国は70~80万石ほどの石高があり、大名は6分の1程度を手にすることができました。現在の価値にすると、近江長浜城時代には12億円程度の年収があったことになります。近江の国は大国で、70~80万石ほどの石高は大名のなかでも、とくに多くの収入があったといえます。
その後、織田信長に謀反を企てた明智光秀を倒し、1585年には関白の地位に就きます。翌1586年には朝廷から豊臣の姓を賜って、豊臣秀吉と名乗り始めます。天下人となった秀吉の直轄領は220万石ほどあったため、秀吉の取り分は約37万石でした。37万石を現在の年収に換算すると、おおよそ555億円です。
また、秀吉には年貢米に加えて、もうひとつの大きな収入源がありました。それが、金・銀の産出です。秀吉の直轄領には金山・銀山があり、収入は数百億円にのぼりました。秀吉は天候に左右されやすい年貢米だけでなく、収入源を金・銀などに分散させることで、年収を安定させていたのかもしれません。
出世した秀吉の年収は1万倍以上の可能性も
天下人となった秀吉は年貢米555億円に加えて、金山・銀山などから数百億もの収入がありました。例えば、ねねと結婚した頃の秀吉の年収800万円を基準とすると、1万倍である年収800億円以上になっていた可能性も十分にあります。身分の差が大きかった時代において、秀吉のような大出世する例は少なく、いかに稀有な存在だったのかがわかります。
出典
国税庁 令和3年分民間給与実態統計調査
執筆者:FINANCIAL FIELD編集部